他人と比べてしまう時は、自分の行動を振り返ろう

私には、継続して続けているシリーズものの作品がある。 自分の好きなバンドのロゴを、画面上で「通訳」して、和風のロゴアートに作り替えるというシリーズで、例えばこのクイーンのロゴならば、妖精の部分を芸者に変え、蟹は兜蟹に、ライオンは北斎の獅子に、白鳥は火の鳥に・・・と言った具合。



元のロゴを知っているだけが楽しめる、というコンセプトなので、あまりにもマイナーなバンドは避け、自分が好きな中でもメジャーなバンドを主に選んで描いているのだが、それでも限られた人に向けて描いているという意識は忘れない様にしている。 大衆向けに描くのではなく、自分のルーツやカルチャーから生まれたアートという部分を大事にしたいからだ。


少し前に、とあるアーティストに会うきっかけがあった。 彼の作るものは、ついつい欲しくなるようなとてもオシャレなデザインで、実際にそれで十分に生活ができるほど利益も出ているようだった。 私は一つの絵を仕上げるのに、考える時間、デザインする時間、下描きを描く時間、それに清書を描く時間と、ものすごいプロセスと時間がかかる。 私はその画力と圧倒的なスピードに感動したので、どのようなプロセスで作品を作っているのか尋ねてみると、彼はすでに存在しているアルバムジャケット等のアートワークを組み合わせたものを直にトレースし、電動のタトゥーマシーンにペンをアタッチして早い時間内で作品を仕上げていると、悪びれもなく教えてくれた。 私はアートに禁止事項はないと思っている。仮にそれがコピーライトを犯すものであっても、それは自己責任であり、それについて第三者がガタガタいう事ではないし、需要があって本人が楽しんでいればそれでいいのだと思う。 生活をしていく以上、合理性は必要だし、ウォーホルが好きか、ゴッホが好きかの違いみたいなもので、どちらが良いも悪いもない。 それをわかってはいても、私の心はザワザワした。


私はこのザワザワの正体を知っている。 「ずるい」という、やるせない、嫉妬に似た感情だ。 それを「やらない」と勝手に決めているのは自分自身なのに、自分がやらないようにしている事を他人が堂々とやっている時、私はどうしても他人と自分を比較して苦しくなってしまう。 嫉妬の感情というのは、一番醜く苦しいのでなるべく持ちたくない。それでも、湧き上がって来てしまう時がある。


というのも、私は昨年おこなった展示で、大好きなシンディローパーの絵を描き、その売り上げをチャリティにしようと奮闘したあげく、結果的に弁護士からコピーライトについての警告の連絡が届き、計画していたチャリティはもちろん白紙に戻さなければならないばかりか、原画に価格をつける事すら禁止されてしまい、ひどく心が折れる体験をしたからである。 彼女は継続して使っているアイコニックなロゴがない為、彼女の有名な写真を私なりに大幅に変えたものをメインに使用し、歌詞の一部を日本語で筆文字にして横にあしらえ、彼女の名前を大きく書き加えたもので、そこには私なりに込めた思いが詰まった、自分でも気に入った仕上がりになった作品だった。 十分アレンジはしてあると思ったし、何よりも売り上げの全てを寄付するつもりで事務所やチャリティ団体にも事前に連絡をしたのだが、返信はなく、それならばこのままゲリラ的にチャリティを敢行して寄付をしよう、と考えなしに展示を始めた矢先に届いた、事務的で冷酷なメールだった。 私はそれをシンディ側からの「拒絶」と捉え、その日から数日はショックで展示も何もかも、どうでも良くなってしまった。 これは完全に私のミスである。 法律は、制作者側の著作権を守る為に決められているのだから。 ものを生み出すという点では同じ立場なのに、私は自分の事しか考えられなかった。 この体験は作品制作におけるとても大きなレッスンとなった。


その後諸々あり、ルールはルール、個人的に受け取るのはやめよう、と割り切れた頃には、私は何のためにこのシリーズを描いているんだろうという新しい疑問が生まれた。 完全に楽しみだけで始めたシリーズだった。 始めた当初には展示をする事すら考えていなかったが、作品を見た人にこのシリーズをメインに個展をしないかと誘われ、ギャラリー側の取り分を抜き、かかった時間と額代が賄えるギリギリの価格で描きためたものを展示した結果、半数以上に買い手がつく大盛況だったので、私は次の展示もすんなりと決まり、その為の作品の一点で起こったトラブルだった。 ミュージシャンに対するリスペクトを込めて楽しみで描いていたものが、いつの間にか展示の為の制作でしかなくなっていた。そして何よりも、当のミュージシャンに対して逆に不敬な行為になるのならば、一体何のためのシリーズなんだろう。 今までに描きためたものに対しては、今でも気に入っているし私はこのシリーズを趣味で続けようと思っている。でも、初期衝動の時の様な本当に描きたいものが次に降りてくるまで、しばらく別のものに集中しようと思い、その後はフリーランスになったのもあいまって、ここ数ヶ月は頼まれた絵の製作や別の仕事に集中する日々が続いている。


そんな中現れた彼の存在は私に再び疑問を投げかけた。 彼は割と長い間そのシリーズの製作をしているようで、私より何倍ものたくさんのフォロワーや買い手がいても、私のようなトラブルにもなっていない様子だった。 今一度言っておくが、決して彼のやり方を非難しているわけではないし、ここで個人を特定する気もさらさらない。 問題は、私の心に生まれたこの「ザワザワ」の感情が、私にとってどんな意味があるのだろうという事である。


何か感情が刺激される出来事が起こった時、それがどんな小さなことでもその感情は自分に何かを気づかせるために沸き上がるものだと私は思っている。 シンディの絵をチャリティにしようと思いついた時、私はチャリティ団体と連携が取れたら、展示の広告にもなるし、私一人で行うよりも大きなお金が集まるし、展示がゲイ・プライドの季節と重なっていた為、これはものすごくいいアイデアなんじゃないかと思った。 しかしその思いつきを突き詰めれば、私は自分よりも遥かに大きな第三者の力を借りて、単に自分の作品を広めたかったからに過ぎない。チャリティという形にする事で「お金のためではない」という逃げにもなるし、実は底辺にものすごく卑怯で不潔な考えを持っていた自分を認めざるを得なかった。 しかしそうして外部からその実現を物理的に遮断された事で気づけた自分の不潔な本心を認めることができた時に、私は前に進むことができた。 自分の見たくない感情に向き合うという作業は、全く楽しい時間ではない。でも、人間生きていれば、嫌な感情は沸くのが自然である。 私はそれを押さえつけない様にしているし、湧き上がってきた感情には、なるべく無視をせず、一人になってじっくりと分析するようにしている。 闇を見つめられれば、その分光が見えるようになるからだ。

彼に会って生まれたこの感情を突き詰めた結果、私は今一度「私は一体何がしたいんだろう」という思いに駆られた。 絵を描いて生活ができれば最高だけど、それならどんな絵でもいいのかな。 頼まれて描く絵にもなるべく自分のテイストを出すように心がけているし、一つ一つ心を込めて仕上げているけれど、そういった依頼やグラフィックの仕事に追われ、私が純粋に描きたいものを、ここ最近全く描いていない自分に気づいた。 ワクワクしながら一気に描き上げてしまうような、自己満足の作品。

自分が本当にやりたい事をしていない時って、どうしても他人が気になってしまう。 他人のやっている事を評価していれば、自分の事を考えなくて済むから。 これを解消する方法は私にとって一つしかない。 どんなに時間がきつくても、自分の作品作りをやめない事である。


アーティストへの道のりは険しい。 けれど、自分の心の声を無視する事だけはやめようと、深く再確認した次第である。

REIKO LAUPER

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